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北欧名作家具を生んだデザイナー、ポール・ケアホルムのすべて[全6回]─ 第1回:ポール・ケアホルムとは何者か? ─

第1回:ポール・ケアホルムとは何者か?
─ 北欧家具デザインの革新者、その生涯とキャリアを追う ─

PK22 リビングルームキャンペーン

ポール・ケアホルムがデザインしたフリッツ・ハンセンのPK22のキャンペーンが始まりました。
そこで、みなさまにポール・ケアホルムのデザインについてお伝えすべく、全6記事に渡ってケアホルムについてお話してみようと思います。

幼少期と家具職人としての出発

ポール・ケアホルム(Poul Kjærholm, 1929年1月8日 – 1980年4月18日)は、デンマーク北部、ユットランド半島にある小さな村・オスターヴロの出身です。のどかな農村の環境で幼少期を過ごしたケアホルムは、若くして家具職人としての道を志しました。

グロンベック工房とデンマーク工芸学校での修行、ウェグナーとの出会い

ウェグナーは、ケアホルムの若き日のキャリアを支え、信頼を寄せてくれた「特別な理解者」。

18歳となった1948年、彼はコペンハーゲンにあるグロンベック工房で家具職人の徒弟修行を終え、その後、デンマーク工芸学校(Danish School of Arts and Crafts)へと進学します。

在学中は、家具デザインの名匠ハンス・J・ウェグナー(Hans J. Wegner)のもとで学びました。ウェグナーはケアホルムの才能を高く評価し、1950年から1952年にかけて、自身のデザイン事務所で彼をパートタイムで雇うなど、若き日のケアホルムにとって大きな支えとなる存在でした。

ウェグナーにとってもケアホルムは特別な弟子であり、後にさまざまな場面でケアホルムに機会を与えるなど、深い信頼関係が築かれていきます。

卒業制作「PK25」とフリッツ・ハンセン社との出会い

1951年、ケアホルムは在学中に「PK25」と名づけられたラウンジチェアをデザインします。この作品は、一本の連続したスチールフラットバーをフレームとし、麻縄(フラッグハリヤード)を座面に張った、非常にミニマルかつ構造的な美しさをもつ椅子でした。

写真はウェグナーがデザインしたスチールの名作 “フラッグハリヤード”(1950)。PK25の1年前にデザインされたことからケアホルムがウェグナーの影響を受けていることが分かります。

要素を極限まで削ぎ落としたその造形は当時として非常に革新的で、1952年春にデンマーク工芸美術館で卒業制作として発表されると、フリッツ・ハンセン社の社長であったスレン・ハンセンの目に留まります。


フリッツ・ハンセン社での短期在籍

その出会いをきっかけに、ケアホルムは1952年からおよそ1年間、フリッツ・ハンセン社に在籍し、PK25の限定生産にも携わりました。

しかし当時のフリッツ・ハンセン社では、新素材を取り入れた実験的なデザインへの理解が十分でなかったため、ケアホルムは同社を離れることになります。

1952年、フリッツ・ハンセン発表のアリンコチェア(アルネ・ヤコブセン)。ケアホルムが勤務していた時期と重なる。

なお、この在籍期間中には、建築家アルネ・ヤコブセンの椅子開発を手伝っていたという記録も残っており、彼のデザイン現場で実務経験を積んでいた可能性も指摘されています。

コル・クリステンセンとの協働による創作の自由

1955年以降、ケアホルムは親友でもある実業家、アイヴィンド・コールド・クリステンセン(E. Kold Christensen、日本語では「コル・クリステンセン」とも表記)とタッグを組むようになります。(ウェグナーがコル・クリステンセンを紹介したと言われています)

クリステンセンはヘルルプに自身の家具工房を構えており、ケアホルムに対して大きな創作の自由を与えました。この理想的な協働関係のもと、ケアホルムは商業的な制約にとらわれることなく、数多くの実験的な作品を世に送り出していきます。

「PKシリーズ」の誕生と国際的評価の高まり

1950年代後半から1960年代にかけては、「PKシリーズ」と呼ばれる番号付きの家具を次々に発表。洗練されたそのデザインは国際的にも高く評価され、ケアホルムは一躍世界的な注目を集める存在となっていきます。

そのキャリアの中期におけるハイライトとして、まず1957年のミラノ・トリエンナーレ国際デザイン博覧会で「PK22」ラウンジチェアがグランプリを受賞したことが挙げられます。さらに1958年には、パリで開催された「フォルム・スカンジナーブ展」においてデンマーク代表として出展され、大きな注目を集めました。同年、ケアホルムはPK22でデンマーク人デザイナーに贈られる権威ある「ルニング賞」も受賞しています。

その後も、1960年のミラノ・トリエンナーレで再びグランプリを獲得するなど、ケアホルムの評価はますます高まり、彼の名声は確固たるものとなっていきました。

教育者としての貢献

また、1955年には母校であるデンマーク王立美術アカデミーに家具科の講師として迎えられ、教育の道にも踏み出します。彼がまだ20代後半だったこの時期に、すでにその才能が高く評価されていたことがわかります。

初代の家具科教授、コーア・クリント。

それ以降、デザイナーとしての活動と並行して後進の指導にあたり、1973年には同アカデミーのデザイン科長、1976年には教授に昇進しました。この役職は、デンマーク近代家具の父とも称されるコーア・クリントの系譜を継ぐ重要なポジションであり、ケアホルムは教育者としてもデンマークデザイン界に多大な影響を与える存在となったのです。

晩年の仕事と「ルイジアナ・チェア」

1970年代後半になると、ケアホルムは公的プロジェクトにも関与するようになり、自身のデザインの幅をさらに広げていきます。その代表的な例として挙げられるのが、デンマークのルイジアナ近代美術館の拡張工事に伴い依頼された、コンサートホール用の椅子デザインです。

今年いってきたルイジアナ美術館(コンサートホール、見忘れました…)

1976年、このプロジェクトにおいてケアホルムは、珍しく木製フレームの椅子(通称「ルイジアナ・チェア」)を設計します。これは彼が改めて木という伝統的な素材に目を向けた試みでもあり、詳細は後述しますが、この椅子はステンレススチールによるモダニズムデザインを極めたケアホルムが、素材の持つ温もりへと回帰しようとした後期の傾向を象徴する作品といえるでしょう。

早すぎる死と不朽の遺産

1980年、ケアホルムはデンマーク王立美術アカデミーに在職中のまま、肺癌のため51歳という若さで逝去しました。その生涯は短くとも、彼が遺した作品群と思想は、今なお世界中のデザイン界に深く影響を与え続けています。

↓ 引き続き、ケアホルムの記事をご覧ください。
第2回:ケアホルムの名作、PKシリーズを徹底解説

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