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ポール・ケアホルム ウェグナーに学び、ステンレスの家具をつくった人

DESIGNERS / Poul Kjærholm|1929–1980

家具デザイナーのポール・ケアホルム

先に人物像を一言でまとめるなら、
「職人として始まり、デザイナーになり、家具を通して空間を考える「教育者」になった人」だと思います。よく「スチールを使ったミニマリスト」と説明されますが、それだけだと彼を表現するにはちょっと足りないかもしれません。

ポール・ケアホルムとは、どんな人物だった?

Poul Kjærholmは1929年、デンマーク北部ユトランドのØstervråに生まれました。

ケアホルムは少年時代から絵を描いたり、ものをつくったりすることに強い興味を示したそうです。家族はそれを見て、知り合いの家具職人のもとで修業するのがよいのではないかと考えました。

ここから後の世界的デザイナーの人生が始まります。

木工・指物の訓練を受け、その後1949年ごろから1952年にかけて、ケアホルムはコペンハーゲンの美術工芸学校で家具デザインを学びます。在学中には講師だったハンス・J・ウェグナーの事務所でも働いていました。

つまり、木工家具の最高峰のようなウェグナーを間近で見ていた、直系の教え子です。木を削り、接合し、家具を実際につくることを身体で知った人が、その後スチールの家具へ向かったわけです。

ここがケアホルムを理解するうえですごく重要で、

1950年代のデンマーク家具といえば、ウェグナー、フィン・ユール、ボーエ・モーエンセンなど、木材と高度な木工技術が中心でした。ところがケアホルムは、スチールも木や革と同じように「表情を持った素材」として扱おうとします。

彼の有名な言葉があります。

“I would rather express the character of the materials than my own character.”

「自分の個性より、素材そのものの性格を表現したい」という考え方です。

だからケアホルムの家具は、「自分らしい形をつくって、その形を材料で実現する」というより逆。

まずはスチールや革、石といった素材ありき。

素材の性質を観察し、その答えとして形をつくる。

彼はリートフェルト、ミース・ファン・デル・ローエ、モンドリアン、チャールズ&レイ・イームズなど国際的モダニズムの影響を受けながら、デンマークのクラフトマンシップと工業技術を融合させた人物とされています。

興味深いのは、本人が自分を単なる家具デザイナーではなく、“furniture architect”=家具の建築家と捉えていたことです。

彼にとって家具は、単体の商品ではなく、部屋の空間、光、人間の身体、建築との関係をつくる小さな建築でした。フリッツ・ハンセンも現在、ケアホルムについて「家具が空間体験を形成する重要な要素だと考えていた」と説明しています。

この考えを知ると、PK22が低い理由も見えてきます。

これは「低くて格好いい椅子」なのではなく、空間を遮らない椅子なんです。

意外に複雑な、ケアホルムとフリッツ・ハンセンの関係

現在ではPK22、PK25、PK61などなど、PKシリーズがフリッツ・ハンセンを代表するシリーズなので、「ケアホルムはフリッツ・ハンセンのためにPKシリーズをデザインした」と思われるかもしれません。

しかし、PKシリーズはフリッツ・ハンセンのためにデザインされたものではありません。

ケアホルムは学生時代の卒業制作として、後のPK25となる「Element Chair」を制作します。薄いスチール材を連続して曲げ、その上にフラッグハリヤードを張る、とても実験的な椅子でした。

この作品を見たのが、フリッツ・ハンセン創業者の孫ソーレン・ハンセンです。才能を感じたソーレン・ハンセンは、若いケアホルムをフリッツ・ハンセンへ招きました。

ところが、タイミングが悪かった。

当時のフリッツ・ハンセンは、アルネ・ヤコブセンのAnt Chair(アントチェア)の製品化に大きな力を注いでいました。

自分の試作品がなかなか製品化されないことに苛立った若いケアホルムは、Søren Hansenのオフィスに乗り込み、「ヤコブセンの椅子をやめるか、私が辞めるか」と迫ったといいます。

Søren Hansenは「では、さようならMr. Kjærholm」と答えた・・・という話です。

結果、ケアホルムは約1年でフリッツ・ハンセンを去ります。

面白いですよね。

現在フリッツ・ハンセンを代表するデザイナーの一人が、若いころにはフリッツ・ハンセンとケンカ別れに近い形で離れていた。

しかもその原因の一つが、同社のもう一人の巨匠、アルネ・ヤコブセンだったわけです。

そこで登場するのが、アイヴィン・コル・クリステンセン

ここがPK22誕生の核心。

正式には Ejvind Kold Christensen。日本では「アイヴィン・コル・クリステンセン」「E. コル・クリステンセン」などと表記されます。

彼自身は家具デザイナーではなく、
プロデューサー+メーカー+営業+ブランドディレクターを一人で兼ねたような人物でした。

彼は1906年生まれ。家具職人の父を持ち、商業・家具用テキスタイルの世界でキャリアを積みました。1946年からCarl Hansen & SønとAndreas Tuckの販売責任者も務めています。

そこで彼が仕掛けたのがSalesco(セールスコーポレーションの略)です。

Carl Hansen & Søn・GETAMAなどなど複数の家具メーカーを組織し、それぞれに得意分野を担当させ、一つの販売ネットワークとして国内外へ売っていく仕組みでした。その中心にいたデザイナーがハンス・J・ウェグナーです。

コルクリステンセンはプロデューサーとして「生産設備はあるがアイデアを持たない工場」と「アイデアはあるが生産設備を持たないデザイナー」を結びつける人でした。

ウェグナーを離れて、無名に近いケアホルムを選んだ

1953年、コルは独立したエージェント業を始めます。そして1955年ごろ、ケアホルムとの協業を開始します。

コルがケアホルムとの仕事を始めようとした際、ウェグナーは、

「ウェグナーか、ケアホルムか」

という選択を迫ったとされています。

そしてコルは・・・

ケアホルムを選びました。

しかも皮肉なことに、もともとケアホルムという若い才能の存在をコルに知らせた人物の一人がウェグナーだったそうです・・・

1955年当時のウェグナーはすでに国際的に成功し始めていた人物。一方、ケアホルムは20代半ばです。

つまりコルは、すでに成功しているデザイナーとの仕事より、まだ売れるかどうかも分からない、スチールで妙にストイックな家具をつくる26歳に賭けたわけです。

なぜケアホルムとコルは相性がよかったのか

フリッツ・ハンセンの資料によると、1955年ごろケアホルムがスチールという素材に本格的な答えを見つけ、同時期に自分と同じ高い基準を共有できるパートナーとしてコル・クリステンセンと出会った、と説明されています。

ケアホルムは、とにかく妥協を嫌う。

一方のコルも、芸術的品質と職人的品質に非常に高い基準を持った人物でした。

だから二人の関係は普通の

「デザイナー → 図面 → メーカーが製造」

ではありません。

ケアホルムが理想を提示し、コルがそれをどう現実の生産物にするか考える。

この往復によって家具が成立していった。

その結果、二人の協業は1955年ごろから、ケアホルムが亡くなる1980年まで続きます。

フリッツ・ハンセンによれば、現在でも両家は親しい関係にあるそうです。

1957年、PK22がケアホルムの人生を変える

1956年に発表されたPK22はすぐに評価され、翌1957年、第11回ミラノ・トリエンナーレでGrand Prixを受賞します。

ここでケアホルムは一気に国際的な存在になります。

1958年にはケアホルム自身が北欧デザイン界の重要賞だったLunning Prizeを受賞。その評価にはPK22のデザインとクラフトマンシップが大きく寄与したとしています。

つまりPK22は、ケアホルムの代表作になった椅子というより、ケアホルムを国際的なデザイナーにした椅子と言った方が正確です。

実は「先生・教授」という人生がものすごく長い

ケアホルムは、自分でも長く教える仕事を続けました。1976年には、オーレ・ヴァンシャーの後を継ぎ、王立芸術アカデミーの教授に就いています。

ケアホルムは1952年に学校を卒業すると、その母校で1956年まで教えています。

さらに1955年には王立美術アカデミーに関わり始め、1959年に講師・准教授級、1976年には家具・空間芸術を専門とする建築教授に就任しました。亡くなる1980年まで教授職にありました。

つまり、23歳前後から亡くなるまで、ほぼ人生を通じて教育に関わったひとでした。

名作椅子をたくさん作ったデザイナーが、晩年に教授になったわけではありません。

若いころから、デザインすることと教えることを並行していた人です。

家具デザイナーとしての活動期間をむしろ抑え、アカデミーの教育を優先したそうです。

これを知ると、作品の見え方もちょっと変わります。

彼は市場に次々商品を投入するタイプではありませんでした。

実際、作品数はそれほど多くない

息子Thomas Kjærholmが、この点について非常に面白いことを話しています。

父親は決して多作ではなかった。なぜなら、工房と工場を往復する設計・試作・改良のプロセスが、徹底的で妥協がなかったから、だと。

さらに2026年のThomasへのインタビューでは、Poulはレストランやカフェにいても、ナプキンを取り出してブラケットやネジ、ガラスのディテールを描き始めるような人物だったと回想されています。

ネジ一本まで気になる。しかも作品数を増やすより、一つのものを成立させることを優先する。ケアホルムの家具が異様に整っている理由が分かる気がします。

今回使っていただく、PK22とPK61

I’m waitingには、ケアホルムのPK22とPK61を設置します。どちらも1956年に生まれた家具です。

PK22に座ったときに見えるPK61の脚や、座面と天板の高さの関係。一緒に使うことで確かめられるところもあります。それぞれのつくりや素材については、下の読みものでも詳しくご紹介しています。

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